日本人がにんにくを食べてこなかった悲劇
けんこ~コラム・1
日本人がにんにくを食べてこなかった悲劇<
健康について、日々、思ったことを徒然に書き留めています。
日本でも独特の食文化を有していた薩摩人 その底力
にんにく関係の健康食品のホームページを巡回してみるとにんにくの歴史を詳しく解説したページをよく見かけます。
そちらの方は、それぞれのホームページにお任せしておいて日本人が「にんにくを食べてこなかった悲劇」をお話します。
古代エジプトのパピルスに、にんにくをピラミッド労働者に配給していたという記載があるそうですが、原産国はインドや中央アジア説など、いろいろ有って、はっきりしません。日本には2千年前に渡来したらしく、「古事記」「日本書紀」にも記載があるそうです。
もともと、にんにくはその臭いのために洋の東西を問わず、忌み嫌われてきた歴史があり、日本もその例外ではありませんでした。食後の臭気は嫌われ続けていたわけです。
特に日本の場合は、仏教の影響で修行に「にんにくのもたらす精力が煩悩のもとになる」という理由から、ほとんど食生活に登場しなくなってしまいました。
日本料理の原点は茶道を由来にした懐石料理や禅寺の精進料理と言われますが、その禅寺の山門には「不許葷酒入山門(クンシュサンモンニハイルヲユルサズ)という石碑がデーンと立っていたりします。
「葷酒」の葷とは、にんにく、にら、ねぎ、しょうがのような臭いのある野菜のことで、特に忌み嫌われたのはにんにくでした。
これらの「精のつく野菜と酒は寺に持ち込むな!」という厳しいお達しだったわけです。
にんにく卵黄は、江戸時代ごろに今の鹿児島、当時の薩摩地方の民間の滋養食を起源にします。当時の薩摩は日本でも珍しい食文化を持っていました。それは、肉食文化が存在したことです。
江戸時代といえば生類哀れみの令からはじまって、4つ足(4本足の動物)を食べてはいけないということが法律に定められていた時代でしたが、その時代でも、薩摩地方では肉食の食文化が営々と続いていたのです。
にんにくも日本で唯一、薩摩でだけ食べられていたんだと思います。
その結果、薩摩藩が幕府に木曽川の治水工事を命じられた時、劣悪な労働環境や想像を絶する難工事、幕府からの無理難題をものともせず、見事、治水工事を完成させたのは、当時、日本にはなかった「肉食文化」とにんにくを常食する食習慣があったからだと思います。(宝暦治水事件)
「肉とにんにく」といえば、にんにくのアリシンとお肉のビタミンB1が結びついて、さらにパワーアップした「活性型ビタミンB1」アリチアミンが、活力を産む、まさにベストマッチな組み合わせだったのです。
源平合戦の結果は、戦う前から決していた?
時代は遡って、源氏と平氏の戦いのおり、両勢力の体力的な差は歴然としていたそうです。
平氏は武家とはいえ、当時の公家社会と同じような「優雅」な生活を享受していました。
慢性の運動不足と、「お米」だけの食生活。現代では考えられませんが、平安以来、公家の食卓は、とにかく「お米」それだけだったそうです。
現代人の数倍もの量の「お米」を食べていたらしいです。
それが富の象徴だったからかどうか判りませんが、副食は別にどうでもよく、とにかく「お米」をいかに沢山食べるかが「食事」の概念、肉など仏教思想で「野蛮」とされて食べられることもほとんどなかったのではないでしょうか?
ひるがえって源氏は、もう野育ちもいいところ。
山野を駆け巡って、運動能力も鍛えに鍛え、米がろくに食べられなければヒエ、アワなどの雑穀もモリモリ食べ、肉、魚、山の恵みもふんだんに食生活に取り入れていたことでしょう。
野蒜とよばれたにんにくの原型も、精がつくからと積極的に食べていたに違い有りません。
この幕末のリーダーだった薩摩藩と、日本の勢力図を圧倒的にくつがえした源氏の体力、知力、気力の元は、バランスの取れた食生活とにんにく、ネギ、肉など、当時忌み嫌われていた食品も積極的に食事に取り入れていたからと言っては言いすぎでしょうか?
知識がなかったばかりに数万人が犠牲になった日露戦争
そして、何が日本人の不幸かといえば、にんにくが食べられていれば間違いなく数万人以上の命が救えたろうという事です。
明治維新後、新政政府は積極的に欧米文化を取り入れようとし、医学はそれまでのオランダを通じた西洋医学オンリーの状態から、最先端のドイツやイギリスに優秀な人材を派遣するようになりました。
海軍、陸軍の創設にあたって、国軍の健康と栄養管理などに、当時の最新医学を取り入れるために北里柴三郎、森鴎外などの人材を派遣しました。そして、この「森鴎外」が陸軍の兵士の数万人の命を奪った元凶だったことは、実はよく知られています。
当時、「脚気」は日本の風土病だと思われていました。世界のどこを見渡してもそのような病気が見当たらなかったためです。唯一、イギリス海軍の船員にだけ、一時期「脚気」が流行ったことが有りました。
「風土病」という概念で、当時の陸軍は、兵士の「脚気」の原因を追求するため、細菌の特定を研究していましたが、その先頭で軍の方針を決定する立場だったのが、文豪としても有名な森鴎外だったのです。
ところが、イギリス海軍の兵士が脚気になっていたのは、実は精白した小麦を使ったパンが食事として支給されていたためで、精白していない「黒味を帯びたパン」が支給された後、脚気に倒れる兵士は皆無になるという現象が起こりました。
これを見た海軍医務局長の高木兼寛という人物が、「脚気の原因は細菌でなく食事なのではないか?」という説を唱えましたが、これに徹底的に批判を浴びせ、あくまで細菌説を押し通したのは、他ならぬ森鴎外でした。
現代では、脚気の原因はビタミンB1不足ということが判っていますが、当時はドイツのパスツールが発見した「病気=細菌原因説」が最も最先端の医学的流行だったということもあり、また、軍部内での発言力の誇示ということもあって、とにかく森鴎外は、事実に目をつぶり陸軍の支給食品を精米に限定させました。
そして、海軍は高木局長の指示どおり、精白していないパンを兵士に支給しました。
その結果、陸軍は日清戦争で3944人、日露戦争で27800人の兵士を脚気によって失ってしまったのです。 もちろん海軍には、脚気罹患者は皆無でした。ちなみに両軍あわせての戦死者は、日清戦争でたったの293人、日露戦争で47000人です。
このすさまじいばかりの栄養失調振りは、もう悲劇を通り越して強制収容所状態といってよいでしょう。
もし、この時、陸軍の支給食品に週に1片だけでも、にんにくが入っていたら・・・・
この日本人の「脚気の悲劇」は、第2次世界大戦後まで続き、戦後すぐに京都大学の藤原元典博士が、にんにくのアリシンとビタミンB1が結合してできるスーパービタミンB1,アリチアミンを発見し、武田製薬から「アリナミン」として商品化されるまで続きました。
戦後やっと、十数世紀にわたる日本人の風土病が解消されたのです。
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