本ページにアクセスしていただき誠にありがとうございます。

初めまして、株式会社 燦樹(さんじゅ)の山田一郎と申します。

あなたは、今日このページにたまたまアクセスしたかもしれません。

もしくは、誰かの紹介でたどりついたのかもしれません。


いずれにしても、せっかくのご縁です。

ほんの10分でいいので私の話を聞いていただければ幸いです。


福岡の田舎町で20年前に起こった話ですが、
きっと、あなたの心に素敵な想いが湧いてくる事でしょう。


突然強烈な事を言って申し訳ありませんが、お付き合いください。


今から20年以上前、父が福岡県のある田舎町でお弁当屋を始めました。

私が30歳になった頃の話です。


私からしたら無謀にも思える事業のスタートでしたが、
特に口を出すような事はありませんでした。

非常に頑固な性格の人間である上、父子の関係も悪かったため
余計な波風を立てたくはないという想いがあったのです。


元々、事業を行いたい性格を持つ父。

ですから、父としては意気揚々とお弁当屋をスタートさせました。


ところが、56歳の若さで突然脳腫瘍に倒れてしまい、
緊急手術を受ける身となってしまったのです。

父はそれまで何の自覚症状も無く商家として、家族を差配していました。

ところが、その影で数年にも渡り脳腫瘍が膨れ上がっていたのです。


父の腫瘍は卵大ほどまでに膨れ上がっていました。

しかし、不幸中の幸いでしょうか。

これほどの大きな腫瘍でしたが、
良性だったために手術で命は取り留める事に成功しました。



ところが、ここからが想像を絶する苦労の始まりです。

脳外科手術による一時的な記憶障害、
その後の経過での人格の変貌、半身麻痺、言語障害・・・

大量の医薬で身体的にズタズタに引き裂かれていた所に
過酷なリハビリと気力体力ともにズタズタになっていました。


また、父は幼少期に負った怪我の際に全身に雑菌が回り、
丈夫とは言いがたい体で成長してきておりました。

そのツケが一気に出たのでしょうか、
この後に様々な不調が父の体を襲いました。

強烈な医薬品を飲む事による肝機能の著しい低下、
腸にびっしりとできるポリープ、
常に高い数値を示す血圧、

症状を押さえる薬が、また他の副作用を起こし
毎年夏を迎える時期になると原因不明の呼吸困難のような症状で倒れる事もありました。


一向に改善の兆候も無く、むしろ悪化しているように見える毎日。

どん底の状況です。

このままの通院ではどうにもならないという事で、
健康食品に目を向け、あらゆることを試してみたのです。

正直、藁にもすがる想いでした。


そんな中、私たちは一筋の光と出会うことになります。

それは南九州に古くから伝わる、
ニンニクと卵黄を使用した自家製健康食品。



実は父も元々作り方は知っていたのですが、
よもや自身の体調を劇的に改善する事になるとは思いもよりませんでした。

まず、父に現れた変化は気力の充実でした。

辛いリハビリの毎日である父にとって気力は重要な問題です。

後遺症から当時の父にはスプーンの上げ下げさえ、
常人の数十倍、数百倍の気力を要する作業でした。

こんな大変な作業も気力があるから頑張れたのだと思います

その後の毎年の健康診断も胸をはっていた父の姿が思い起こされます。




どん底の状況から、ニンニクと卵黄を使用した自家製健康食品に出会った事
そして、それが体調を劇的に改善した事・・・

全てが奇跡的な出来事でした。


こうして父は寝たきりの状態から健康を取り戻しましたが、
療養のために事業からは身を引く事となりました。

結果として、お弁当屋の切り盛りを私1人で
やらざるを得ない状況となったのです。

仕事から身を引いた父は母と一緒に、祖父母を引き取って
久留米に一軒家を建て、その田舎町から引っ越して行きました。


その後、私は文字通り孤軍奮闘し、お弁当屋を切り盛りしました。

父から経営を任されて、やりがいもありました。


しかし、商売は簡単ではありません。

全くのノウハウも無い私がお弁当屋をやったところで
経営はどんどん苦しくなる一方。


そんな中で、何とか売上を作っても実家に送金しないといけません。

久留米に建てた実家の住宅ローンを支払うために、
送金しないわけにもいかないのです。

お弁当屋の運転資金を借り入れられても、
そのほとんどが住宅ロンーンの返済に充てられてしまいました。。

結果、資金繰りはどん底のままで、
月々の返済が雪だるま式に増え続けていきます。


背水の陣となり、私は24時間営業で巻き返しを図ろうとしました。

切り詰めながらの24時間営業は、
私にとっては即ち睡眠できない事を意味します。

しかし、当時の私はそれほどまでに追いつめられていたのです。


父は体調が良くなると、たまに店に顔を出す事もありました。

すると決まって父は、
「今のお店を辞めて久留米で新しくお弁当屋を作ろう」
と、当時の私には考えられない事を言うのです。


「今の借金を返済しながら新たな借金を抱えて
さらに生活するために一体いくら売り上げればいいのか?」

私は父に問いつめましたが、
当然ながら父にも全く目算はありませんでした。

今でも思いますが、父には商売のセンスがまるでありません。


無謀な事を言う父と、現実を見つめる私には大きなギャップがあり、
日頃言い争うという関係が数年間続きました。

そして決定打となる事件が起こるのです。


それまで会社が借り入れするときも、住宅ローンを組むときも
資産の無い父が保証人として頼りにしたのが母のお兄さん、
私にとっての伯父さんでした。

父が伯父さんに負い目を感じていて、
これ以上お世話になりたくないというのは分かっていました。

しかし、私は覚悟を決め、それまでの決算書をひっくり返し
新事業を始めるための計画書と一緒に持っていきました。


しかし・・・

これはすぐに父の知るところとなり、大喧嘩に発展し
私と父の関係は修復不可能な物になっていました。


結局、ほどなくしてお弁当屋は人手に渡り、
私は父とは一生決別するつもりでビデオ屋を始めました。

風の噂で、父は健康食品の「にんにく玉」を
作って売る事を始めたと聞きました。

しかし、私には関係ありません。


家族、兄弟、親戚、知人から「あいつは両親を捨てた」と、
後ろ指を指されようがどうでもいい。

あの人は私の父ではない。


他人という線引きを引いた瞬間でした。


両親を捨てた私は
実家から車で1時間ほどの場所でビデオ店を経営していました。

その間、実家に殆ど近寄る事はありません。

父親と顔を合わせると大喧嘩になることは目に見えていたからです。


実家の借金は父の目算の無いずさんな考えで膨らんだのですが、
伯父さんの奔走で返済期間に大幅の猶予が出来たようです。

私はと言うとビデオ屋を始めてから、時間だけは豊富に出来ていました。

すると、どうでもいいと思っていた
実家の両親の生活が気になってきている自分がいました。

何より父に振り回され、実際に台所で「にんにく玉」を作り続ける
母の苦労が心配でならなかったのです。




いてもたってもいられなくなった私は、
パソコンでチラシを作ってあげて近所に配りました。

ところが、父は気に食わなかったようでまたしても大喧嘩。

私は、完全に連絡を取らなくなりました。


そうして、半年1年と連絡を取らず、ついには8年の歳月が経っていました。

そんなある日、絶縁状態の父から電話がかかってきました。

2002年3月の事です。


すぐに実家に帰ると、母の消耗は目を覆うばかりでした。

また、離婚して嫁ぎ先から戻った妹の子供たちもお腹を空かせていましたが
家にはお菓子はおろか、パン1枚すらも残されていなかったのです。

状況は、私の想像を超える物でした。


実家から帰る道で、頭が割れんばかりに考えました。

「もう時間が無い、どうしよう、どうすればいいんだ!」


それから週1回、ビデオ屋をバイトに頼んで
食べ物を実家に届ける生活を送りました。

やがて、週1回が2回、3回、
そして殆ど毎日実家に通うようになりました。


すると・・・

なぜか父が切り盛りする「にんにく玉」の事業を
どうしたら軌道に乗せるかの事ばかりを考えていたのです。

正直、父がこの事業を始めた時は、
遊びの延長線だとバカにしていました。

しかし、この時にはどうしても気になって仕方なくなっていたのです。


それから私は「にんにく玉」の卸先を必死に探したり、
にんにくについての知識を書きとめたりと、
何かに取り憑かれたように必死に毎日を過ごしていました。

また、私はパソコンの知識は全く無かったのですが通信販売をするために、
目が飛び出るような出費をしながらインターネット通販の学校に通いました。


その努力も実を結び、少しずつ「にんにく玉」の
受注も入るようになっていました。

受注が増えた事により両親の製品作りが間に合わなくなりましたが、
代わって私が仕込みから製品作りまでこなせるようになりました。


・・・思い出したくもなかった、お弁当屋の経験がモノをいったのです。


しかし「にんにく玉」のおかげで、家族、親子のほころびが
少しずつ解消されつつあると感じたのもつかの間

「にんにく玉」の生みの親である、母が過労で帰らぬ人となりました。


母が他界した事で、父だけでは「にんにく玉」の事業を回せなくなりました。

そこで、私はビデオ屋をたたみ
やむなく父の会社を本格的に手伝う事になりました。


しかし、この時になっても
私と父の関係は良好ではありませんでした。

「お前は、オレの事業を乗っ取ろうとしている」
と、敵意むき出しで言われた事もあります。


何としても父を支えたい、母の作った「にんにく玉」を守りたい。

その一心で会社を手伝っていたのに、その思いも伝わらず
心が消耗しきったのか涙が止まらなくなる事もありました。


それでも、「にんにく玉」を今の今まで続ける事が出来たのは、
実際に飲んだお客様から頂く、たくさんのお声があったからでした。

これは本格的に会社を手伝って初めて
直に接する事が出来たものです。




お客様の「ありがとう」というその声に一番癒されていたのは
紛れも無く私自身でした。

「にんにく玉」の事業が私にとってのやりがいに変わったのも、
最愛の母が他界して憔悴しきっていた私の心を支えたのも、
お客様から頂く「ありがとう」の言葉の数々でした。


そして、いつしか私の心は温かい物で満たされていきました。

たくさんの「ありがとう」に包まれる事で、
ギスギスした物が消えていったのです。


すると、何でも無いふとしたタイミングで

「お父さん、本当にありがとう。」

という、言葉が出ました。


私も何故、このような言葉が出たのかわかりません。

しかし、無性に父に対して「ありがとう」を
言いたくなったのです。


父もあまりに想定外だったのでしょう。

まるで「鳩が豆鉄砲くらったような」おかしな顔をしたのを覚えています。



長い沈黙の後、仕事の話に戻って、その日は家を後にしました。

形容しようがない、本当に不思議な時間でした。


ビデオ屋をたたんで私の借金も増えました。

お金もないし「にんにく玉」もまだまだ思うように売れていない。


だけども・・

父と一緒に未来の希望に向かって一緒に歩んでみてもいいのではないか。

そんな気持ちが、私の口からこぼれ出したのだと思います。

そして、その気持ちが父にも伝わっていたように感じます。


以前なら、「ありがとう」など
父には口が裂けても言えない言葉でした。

しかし、「目に見えない力」が背中を強く押してくれて
自然に言う事が出来ました。


「目に見えない力」

それは、お客様から頂いた、たくさんの「ありがとう」です。

この「ありがとう」が、私に「ありがとう」と言わせてくれました。


この不思議な時間から、
私たち親子の喧嘩は一切なくなりました。

あれ程ひどく、そして数年に渡って続いた
私たちの確執が完全に解消されたのです。


今、私たち親子が、笑顔でいられ、絆を取り戻せたのは、
私たちを支えてくれた全てのお客様です。

「心から感謝します。ありがとうございました。」


そして、、、頑固で意地っ張りなお父さん

「ありがとう。これからも元気でいてください。」





私の母が作り、
父を奇跡的に復活させ、
そして、父との絆を取り戻させてくれた・・・

私にとって「にんにく玉」は、かけがえのない物であり
正に人生そのものと言っても言い過ぎではありません。


そして、今や「にんにく玉」は全国の方々から支持され

「体調がとても良い感じ」
「元気が持続するようになった」
「気持ちが前向きになった」
「毎日が生き生きとなった」
「気力に満ちあふれるようになった」
「朝からスッキリできるようになった」

と多くの声を頂いております。


特に中高年の方からの喜びの声が大きく、
健康維持のために愛用いただいております。


そんな「にんにく玉」を、この機会に
あなたのご家族・ご親戚にプレゼントしてみてはいかがでしょうか?

自然の原料のみで酸化防止剤も使用しておらず、
品質については100%の自信を持っております。


私もあなたに喜んでいただけるように、
「ご両親ご家族ご親戚特別パッケージ」をご用意させていただきました。

非常にお得なパッケージとなっておりますので、
是非、この機会にお試しいただきたいと思っております。